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ごあいさつ

心の安らぎを求めて
お参りください

​福田寺は、京都市南区久世殿城町に堂宇を構えています。西山浄土宗の総本山光明寺(京都府長岡京市粟生)の末寺です。光明寺は、法然上人が浄土宗を開かれ、念仏の教えを最初に説いた粟生の地にあり、法然上人の御本廟があります。

 

御本尊は、釈迦如来様と地蔵菩薩様。二尊を御本尊とすることは珍しく、また、個性的なお姿の龍神様、弘法大師ゆかりの摩耶夫人様をお祀りしています。

 

奈良時代に草創されたと伝わる歴史ある寺院を護持するとともに、お檀家様・ご信徒様、真心を込めて大切なご先祖様、大切な亡きお方のご供養・ご葬儀・ご法事をつとめさせていただきます。

 

私自身、お寺にお参りになられた方にご縁を感じます。気軽に話せる存在でありたいと思っています。心の安らぎを求めてお参りください。

福田寺  住職   神田 光晴

宗派
西山浄土宗
山号 寺号
迎錫山 福田寺
こうしゃくざん ふくでんじ
​創建
養老 2 年(718)
開山
行基菩薩
御本尊
​釈迦如来
地蔵菩薩
history

縁起

安産と雨乞い祈願のお寺/京都市南区

奈良時代、
行基菩薩創建と伝わる古寺。

平安時代には、
俊恵法師が住職を務める

奈良時代、第44代元正天皇の御代、養老2年(718)行基菩薩による創建といわれ、『福田寺縁起書』では次のような縁起を伝えています。

ある夜、行基菩薩の夢に2人の僧が現れます。行基菩薩は僧たちにいざなわれて園林にたどり着き、この地の大木をもって二尊像を作るよう告げられます。

夢から覚めた行基菩薩が、僧たちに教えられた地を訪ねてみると、そこには夢に見た園林がありました。念仏を唱えて霊験を祈ったところ、2本の樫の木からまぶしい光とともに釈迦如来と地蔵菩薩が示現。行基菩薩は2本の樫の木をもって釈迦如来と地蔵菩薩を刻み、二尊を安置する精舎を建立しました。それこそ、福田寺と伝わります。

また当初、真言宗で七堂伽藍を有していましたが、のちに荒廃したらしく、さらに後世、浄土宗に改宗したといわれています。

 

行基菩薩以降、歴代住職の中には、平安時代後期の歌人、俊恵法師がいます。俊恵法師の和歌は、『小倉百人一首』に選ばれています。

福田寺の本堂外観

本堂(右)と龍神堂(左)

俊恵法師の和歌を刻んだ石碑

平安時代、福田寺の住職を務めた俊恵法師の歌碑。「故郷の坂井のしみず水草いて月さへ住まずなりにけるかな」。長旅に出て久しぶりに帰ってみれば、寺が荒れており、それを嘆かわしく思い、詠んだ歌といわれています

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著名な歴代住職

行基菩薩 ぎょうぎぼさつ

奈良時代の僧。天智天皇7年(668)、河内国大島郡(のち和泉国。現、大阪府堺市)で生まれ、15歳で出家し、24歳で受戒。

天平勝宝元年(794)82歳で没するまで、四十九院と呼ばれる寺院を建立したほか、池・溝の修築、架橋等を積極的に行い、人々から行基菩薩と慕われた。

福田寺には、行基菩薩像を安置。石塔婆も建立されている。

行基菩薩

福田寺安置、行基菩薩木像。作者・制作年不詳

俊恵法師 しゅんえほうし

宇多源氏の流れを汲む平安後期の歌人、僧侶。永久元年(1113)生まれ。若くして東大寺に入門し、僧となった。いつのころか不明だが、福田寺に住職として入山。

代々歌人の家系で、祖父の源経信、父の源俊頼、そして俊恵法師、三代の和歌が『小倉百人一首』に選出されている。

京都白川の僧坊を「歌林苑」と称し、和歌同好者が集う文学結社を形成。自らリーダーとなって月例会・歌合・歌会を開き、歌友には源頼政、鴨長明等もいたという。歌林苑は当初、福田寺に置かれたのではないかという推測もある。

福田寺には、俊恵法師の石塔婆が建立されているほか、かつて境内には法師が和歌に詠んだ「坂井の清水」があったと伝わる。

俊恵法師

お檀家様寄贈。木目込み細工で表された俊恵法師。右上に『小倉百人一首』に収録されている和歌が見られます。「夜もすがらもの思う頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり」

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